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Myディベート原稿

僕の通っている学校では文化祭のオープニングに弁論大会があります。 奈良にありますという言葉を加えたらだいたいわかっていただけると思います。 さて、全く書く内容がない本ブログサイトに潤いの水を与えるために、書いた内容を出そうかと思います。 (とりあえずエントリーがふえた)

ここでのコメント欄での弁論、やってみませんか?



弁論:見習えない日本の教育
「ルックイースト」政策をご存知だろうか。 1982年にマレーシアで始まった。 当時、アメリカで多額の利益を生んでいた日本企業を見習う、という内容で、行政と企業が協力する「日本株式会社」、企業への忠誠や・責任感を養う「終身雇用制度」が高く評価された。 この政策を始めたのはマハティール前首相という人で、日本を長年研究してきた末の決断だったという。 「日本人は信念を持ち、仕事に集中し、礼儀正しかった。車同士ぶつかると、双方の運転手が出てきてお辞儀をして素早く処理した。日本の列車が遅滞なく、正確に運行されているのにも深い感銘を受けた」 こんな日本人への印象や、彼女自身が経験した、日系企業との接触が大きく影響したのだろう。 

当時は、マハティールの言うとおりだったのかもしれない。 1982年といえばバブルの絶頂期が控えていた頃だ。 彼女の決断もうなずける。 しかし、ルックイースト作動から23年の歳月が流れた。  当時職場をリードしていた者は引退し、当時の若手が現在の重要層、ちょうど団塊の世代あたりを占めているのだろ。  では、日本は当時の勢いを保てているのかといえば、誰もがノーというだろう。 バブルは崩壊し、日本が誇っていた技術力も他国に肩を並べるまでになってしまった。 
では、どうしてこのような結果になっているのだろうか。 
海外、特に欧米などの国の学校と比べて著しく目立つのが、日本の教育の異色さだ。 
まず、俗に言われる「いい大学」と、本来教育が目指すべきである「学問、教養」が違うものであるという点だ。 早い人は、小学校からすでに大学に向けての受験勉強が始まっている。 その大学に入るためには、重箱の隅をつつくような、一見何の役に立つのか検討もつかない知識を要求する。  そのため、義務教育、そして高等教育は「知識を増やすこと」を重点的に行われる。 つまり暗記だ。  この基礎を重んじる手法はアジアでは目立ったものではない。 中国でも、昔のヨーロッパでも、記憶は大切であるとみなされてきた。 だが通常はあくまでも最低限、発展した理解、もしくは社会に出るために必要な分だけだ。    それに対して、アメリカ、そして近代のヨーロッパはなによりも理解を重視する。 本当に理解するうえで欠かせない基本事項は記憶するが、存在を知っていればいい物や、正しく使えればいい物は、覚える必要が無い。 歴史などの暗記形科目でも、試験では壮大なエッセーを書かされる。  因果関係、そして意見を求めるものから、心情理解といったものまでを必要とした。  つまり、合理的な創造性を求められるということだ。
この差が顕著に現れるのは母国語と数学だ。  どの高等学校でも、数学では、計算機を用いる。 コンピュータの計算能力がいつでも手に入る今、大切なのは使う力であるという判断からである。  また、母国語では、創造性をフルに活用する。 現代の英語では、日本のように答えを見てマルバツをつけられる問題はあまり重視されない。 長文の中で意見を表現し、発表するものばかりだ。  エッセーや小論文、リサーチペーパー、レポートの中で、調査した結果を説明、図化したり、正しく自分の意見をサポートしたりする技術が教えられる。 どちらも社会で即使えるものばかりであることに気づいていただけるだろうか。

第二に、画一的、前例神視的教育があげられる。  日本では外見上の集団行動が重視される。 軍隊のように行動することや、自己を殺すことが美とされている。  これは日本を述べる上ではなくてはならないもので、ひとつの文化であることは間違いないが、 この大儀を振りかざし、個人を尊重するということがないがしろにされていることが少なくない。 これは、保守的であるという日本人の評価と直結している。    ディスカッション、会議などでも、日本人は誤りや反対意見を快く思わない。 場を壊すことにもなるし、もしその意見が目上の者が出した意見であれば顰蹙を買うだろう。  アメリカ人も反対されて喜ぶわけではないが、反対意見に文句を言う人はあまりいない。 つまり、自己主張しかできない人間を作り出しているという側面を持っているということだ。

これら二つの特徴から言えることは、少なくとも大学までの日本の教育は、、社会に出て行くときにはあまり使えないということだ。 本当の学問でもなく、有力な人であるわけでもない。  社会に入ってから再度、知識とはあまり関係の無いところーそしてずっと改変しにくいところーを変えなくてはいけないのだ。 このような社会では慣れが物をいい、これが「終身雇用制度」の利点を生み出していたに過ぎない。  日本の縦の関係も、上に全て従うという習慣も結局はこのことから来ているのではないだろうか。  

高等学校の時点ではではすでにこのゴールがずれている学問に何の違和感も無く取り組める人が多い。 だが、やはり自分たちが本当にしたいのは、学問であって、大学に入るということも、そのプロセスの1つに過ぎないはずなのではないだろうか。  大学が学問の本質を変える前に、順位を変えなければ、今度は日本がルックイーストをしなければならなくなる日がくるだろう。
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